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恭三郎の部屋

ROOM OF KYOZABURO

柘製作所代表取締役・柘恭三郎のブログ。

母玉江が昨年暮れの28日に旅立ちました。亨年九十五歳。

母の思い出。その1

母とパイプとの関係で思い出すことがある。母は五男二女の子持ちで、戦中と戦後すぐに二人の男の子供を亡くしてる。長男と私のすぐ上の四男。私は三男だが、正確には五男だ。
母は子供を育出るのに忙しかったのに、パイプのバフ磨きは手伝っていた。多分我々を背負ってバフの機械に向いていたと思う。

戦争中の話、柘製作所は、軍からの仕事で銃の台座を作らされていた。パイプは木工製品、銃の台座も木製なので仕事が回ってきたのだろう。しかし、同じ木工製品でもパイプは片手で持つことができ、口に咥えることのできるくらい軽いもの。

パイプ職人の仕事は、すべて両手で軽く持って荒削りからバフの仕上げる。しかし、銃の台座となると軽く持ってする仕事できない。また、当時は柘製作所に鉄製モデルをもとにしてパイプを削り出すコピーマシーンは無かった。まず平板を台座の形に切り出し、後はガラと呼ばれる回転ヤスリとカッターの混血児みたいな機械で粗削りする。仕上げは回転するサンドパーパーで滑らかな表面にする。

きっとなれない仕事でハードだったに違いない。
「戦地にいる兵隊さんのことを思えば、弱いねは言えない」と言っていた。どれくらい作ったのかという質問には「それはもう、どっさり」。いつ聞いてもどっさりだった。

母は台東区寿三丁目(現四丁目)に生まれ、同じ場所で旅立った浅草っ子。小学校は近所の田原小学校、ちなみに私も私の娘達も同じ学校に行っていた。「どっさり」と時間を聞くときは「今いく時?」が口癖だった。勿論、江戸っ子特有の「ひ」と「し」の区別はあやふやで、それが私に移ったのだろう。私も今だにキーボードをたたく時に考え込んでしまうことがる。