母玉江の思い出。その3
根っからの浅草っ子であった母は、お醤油は「おしたじ」、味噌汁は「おみおつけ」、斜めを「はすっかい」、それと「塩梅(あんばい)」は料理と限らず道具使いや天候にも使っていた。
私が幼稚園に通っていた時は母を呼ぶ時は「おかーちゃん」だった。田原小学校に入ったその日に、今日から学生になったのだからおかーちゃんは「お母さん」、おとーちゃんは「お父さん」、おばあちゃんは「おばーさん」、おじいちゃんを「おじいさん」と呼ぶようにと言われた。その時、子供心に幼稚園児ではなく小学生になったのだと自覚させられた。ちゃんずけは、小学生以下の幼児語などと言われたが、今六四歳の私をいまだに「恭ちゃん」と呼んでいる町内の先輩がいっぱいいる。二十歳ごろ、仲間に母のことを話す時「俺のお袋は・・・」と言った時には大人になった気分だった。
小学生の時、母親は「うどんは女子供の食べるもの、男は蕎麦。それが江戸っ子だ」と言われた。二歳離れた妹が、よくうどんを食べていたので、「おれは男だ、うどんはひよわな女子供が食べるもの」と心で思い優越感にしたっていた。確か、うどんは風邪っぴきの時、中学生だったと思うが、月見うどんを食べさせられたのが最初だった。
今でも蕎麦屋でうどんは食べない、浅草っ子の沽券にかかわる。しかし、うどんが嫌いというわけでない、好きで四国の友人から旨いうどんを時折に送ってもらっている。うどんを食べる間抜けな姿を浅草の仲間に見せたくない。蕎麦を手繰って、蕎麦つゆが着物にかかって、後でシミ抜きだ!なんて思っても口には出さず。さっと食べて、蕎麦湯をもらって、蕎麦猪口に残ったネギと山葵を入れ、さっさと飲み、おあしを払って出ていく。
母は着物が好きで、初めてハワイに行った時でも着物で行って、汗をかいて困ったと言っていたくらいだ。和装の話では、草履をよく父が関西出張の時に頼んで買ってきてもらっていた。浅草で売っている草履はすべて鼻緒が短く、京大阪で売っている草履は鼻緒が長くて歩きやすい、と言っていた。下駄もそうだが江戸っ子好みの下駄は、鼻緒の後ろの坪(穴)が後ろの歯の前にある。関西風は歯の後ろになる。
以前、下駄を作っている職人と話した時、江戸っ子好みに作ると鼻緒が寸詰まりになって格好が悪い。と言った。でもあっしは、真っ角で前坪を下げ、後坪は後ろの歯の前に出る下駄が好きだ。美意識の差というよりも浅草の先輩の格好を見ているので、そうやすやすと納得するわけにいかない。京都生まれの先輩が、「京都ではそのような四角い下駄は庭下駄か、便所の下駄だ」と言った。心の中では、幅広で、鼻緒が太い下駄など一生履くもんか、と反発。恩ある先輩に喧嘩を売ってもはじまらない。
今古亭志ん生の落語に「祇園祭」がある。その中で京都の人が、江戸っ子を「関東のへげたれ」と言って馬鹿にするくだりが、この言葉は昔からあっしの心の奥に渦巻いている。江戸っ子を関東のへげたれという馬鹿にする言葉だが、江戸っ子が関西人を馬鹿にする言葉は今まで聞いたことがない。「箱根から向こうは化け物が住んでいる」くらいかな。これは、江戸っ子は京の文化に対立的な立場に立っていないからではないか。浅草の芸者も着物、和装の小物は京都まで行って買ってくるものがあるという。
浅草の裏で芸者を揚げて騒いだ時に、芸者達は盛んに京都行って、どこそこの店で売っている半襟がいいだの言っているので、しゃくにさわった。浅草にもあるだろうに。「んなもの浅草で買えよ、京の人間はな俺たちを『関東のへげたれ』と言ってんだぜ」と言ったらその芸者は「祇園祭」とすかさず言った。落語をよく知っていいないと出てこない言葉だ。
芸者が落語好きだと判っていい気分になったものだ。「知っているねェー、噺が好きなんだ」とまるで「石松の三十石舟」の森の石松の心境になった。それからは落語の話で盛り上がったのは言うまでもない。しかし、なぜか「関東のへげたれ」と言われても許せるし、言われることに心地よさがある。もし、関西に行った時「よー関東のへげたれが来た」と言われたら、何と返すか考え中だ。なにか洒落た言葉で返したいね。「よっ、くいだおれ、きだおれ」では面白くない。