亡父 柘恭一郎 について
父柘恭一郎が平成22年11月2日の午前9時18分にこの世を去りました。
その時間、我々兄弟5人と母、それにかかりつけ女医さんがいました。全員が見守る中静かに息を引き取りました。亨年99歳。明治44年2月生まれ。
明治、大正、昭和そして平成と生き抜いた「職方商人」として生き抜いた人生だったと思います。
13歳の時に両親を亡くし、すぐに象牙パイプ職人として丁稚奉公に出て、その後はパイプ一筋の現場を歩いてきました。父は、象牙パイプ(シガレットホルダー)からブライヤーパイプまでたばこを喫煙する道具奈良何でも作ってきました。我々や職人達には「職方商人」の精神を残して行ってくれたと思います。
父とのエピソード
1970年代のパイプブームの真っ最中に、父とイタリアのリボルノにブライヤー原材料の買い付けに行った時のこと。当時キング・オフ・ブライヤーと呼ばれていたドイツ系イタリア人オットーブライウン氏とブライヤーエボーションの買い付けの商談をしました。1960年代70年代イタリアのあまたいる材料屋の中では断トツの在庫量を持っており、安い値段で大量に買うにはこの会社しかなかった。オーットー氏には2人の息子がいて、彼らもいての商談の場だった。こちらは私と父に母の3名でした。当時は柘製作所は工場を千住から浅草に移し、イタリアから最新式のパイプ製作機械類がセットで入ってきた時で、国内はもとよりベトナム輸出やアメリカ兵のお土産用パイプ等大量にパイプを作っていた時代だった。当然ブライヤー原材料の買い付け数量も増えてきたので、新しいブライヤー材料取引先を探していました。
彼らと商談が始まり、しばらくすると父が大きな声で「恭三郎!話にならない、帰るぞ」言って席を立とうとしました。私も母も、もちろん彼らも驚き全員が僕の顔を見た。父に理由を聞くと「この会社はブライヤーを金儲けの道具としか考えていない、そんなところとは取引したくない、時間の無駄だ」ということで事務所を出ることにしました。
私は「商売だからいいじゃないですか、いい材料を大量に安く買えることができれば、それでいい、いくら人間的に我々とそりが合わなくても構わない」というようなことを父に言いました。しかし、納得してくれず、そこから引き揚げたことを覚えています。ホテルに帰ってから「商売のやり取りを聞いていると、腹が立ってきたんだ。ブライヤーに食わしてもらっている感謝の念が無い」というようなこと答えた覚えがある。30歳前の私は変わった頑固な親父だからしょうがない、と思うしかなかった。
ブライヤーの材料はイタリアの南端のレジョカラブリアやスペインのカタロニアから順調に入ってきているので、それほど切羽詰まった商談でもなかったので、私も商談が成立しなくてもいいと思っていました。父が絶対に買いたくないというのだからしょうがない。
1980年に入って、オットー氏の会社は潰れてしまいました。きっと、彼も当時会社の経営が思わしくなかったので、何としても売りたかったのだろう。その結果、商談にも齟齬をきたしたのだと思います。父はその経営のおもわしくない会社の内容を臭ぎ取ったのかもしれない。それにしても、ブライヤーに感謝していないとは明治生まれの職人らしい。
10月後半から11月中旬までは展示会、海外出張、全日本パイプスモーキング大会、多数の外国からのお客様等で時間が取れませんでした。やっとここでブログに書けることができました。